ただ話してただけ。でも、それが全てだった。
うちには、夜ごはんの時間やそのあとに、家族でキッチンテーブルを囲んで話す時間があります。
はじまりのきっかけは特にありません。ただ、気がつけばいつの間にか「そういう時間」が日常になっていました。
学校での出来事。
今日うまくいかなかったこと。
マイクラの作戦会議。
英語で失敗して落ち込んだ話。
ときには「人ってなんのために生きてるんだろう?」という話まで飛び出します。
話す内容は毎日違いますが、共通しているのは、誰かが何気なく話し始め、それに誰かが自然と返していくことです。
リビングで話すこともたくさんありました。
でも子どもたちと深く話すのはいつもキッチンでの立ち話やダイニングで起こります。
誰が正しいかを決めるわけでもなく、結論を出すことが目的でもありません。
ただ、思ったことを言葉にして、受け止めて、また返していく。その繰り返しです。
気づけば、それが我が家の習慣になっていました。
ふり返ってみると、この時間があったからこそ、子どもたちの中に「考えること」「言葉にすること」「違う意見を聞くこと」が、自然と育ってきたように感じます。
もちろん学校やその他の場所で学ぶこともたくさんあるのですが、家に帰って家族で話す。
それは自分の感情や考えを理解する大切な時間のように思います。
そして私自身にとっても、この時間は“子育て”のためだけではなく、
「私はどう生きたいのか」を問い直す時間でもありました。
完璧じゃない私が、子どもたちと育ててきたもの
私は、子育てに関して完璧な親ではありません。
英語も自信がないし、感情的になることもあります。
理想どおりに毎日を進められない日だってたくさんあります。
それでも、子どもたちと過ごす時間の中で、
「どうしたらもっとよくなるだろう?」
「どんなふうに声をかけたら、この子たちは前に進めるだろう?」
そんな問いを、毎日くり返してきました。
マニュアルはありませんでした。
他の家庭と比べてどうこう、という考え方もあまり持っていません。
ただ、目の前の子どもたちと向き合う中で、私自身がいつも「自分なりの答え」を探していたのだと思います。
その問いのひとつが、「うちの教育って、どうあるべきなんだろう?」というものでした。
自分と同じ環境で子育てをしている人って実はほとんどいない
我が家は、長女が幼稚園年少を半年間日本で過ごしただけで、それ以降日本の教育は受けていません。
補習校もないエリアに長く住んだこともあり、私は彼女たちの日本語教育を自分でしてきました。
学校では英語だったのですが、第二言語の英語が学校だけでネイティブと同じになれるわけはありません。
私の海外生活のほとんどは、家事と育児と「学習フォロー」に費やしてきました。
同じように駐在のお父さんに帯同してくる日本人家族にもたくさん出会いました。
外国人ファミリーにもたくさん出会いました。
本当に似たような状況ってないのです。
例えば、我が家は駐在期間未定、その後も日本に住む予定は不明。
両親日本人、親の第一言語は日本語。
夫は英語ビジネスレベル、私は日常会話もなんだか不安な場面多数です。
そうなると、英語は本腰を入れてやる必要があります。
また、有事のときにはパスポートのある日本へ帰るわけです。
それなりの日本語も身につける必要があると考えました。
でも中には、3年とか5年とかはっきりと駐在期間が決まっている家庭も多いです。
他国へスライドする可能性のある人もいれば、
任期が終われば日本へ帰ると決まっている人もいます。
赴任時の子どもの年齢によって、英語メインの学校へ入れる難しさも違う。
日本語を維持する難しさも変わってきますよね。
そうやって細かく見ていくと、実は駐在の家庭でも似ているパターンってあまり多くはありません。
“ふつう”がなかったからこそ、考え続けるしかなかった
誰かと同じ方法を参考にすることが、そもそもできませんでした。
だからこそ、我が家では「何を大切にしていくか」を、ゼロから考え続けてきたのだと思います。
正直、手探りの連続でした。
それでも、揺るがなかったのはひとつだけ。
「この子たちの“生きる力”を育てたい」
私は、それを知識でも資格でもなく、日々の“対話”から育てられるのではないかと最近考えています。
うちにとって、その“対話”が育つ場所が、キッチンテーブルでした。
正解のない問いを、これからも一緒に考えていく
「問い」と「対話」。
このふたつは、我が家の子育てにおいて、特別な意味を持っています。
うまく言えなくてもいい。
答えがすぐに出なくてもいい。
だれかと同じじゃなくてもいい。
でも、自分で問いを持ち、それを誰かと共有できることは、
きっとこの先を生きていく力になると信じています。
私は、親として“教える”よりも、“一緒に考える”ことを選びたい。
たとえ不器用でも、それが私にできる子育てだと思っています。
年齢は関係ない。自分の得意分野を優しく教えてあげることで育つもの。
家ではなるべく私は日本語を話し続けてきました。
家で英語を話せば、私の英語ももっとうまくなるのに!という気持ちもありました。
でもそこは母として、子ども優先で 笑
オーストラリアに引っ越してから、姉妹の会話はほとんどが英語になりました。
そこには彼女たちの苦労もあってのことなので、口出ししません。
でも、私にも英語で今日あったことを話してきたりするわけです。
子どもたちは必死に説明しているので、その場合は止めずに英語で会話することもあります。
ただ、私の英語がおかしいわけですよね。
その時に、私に英語を教えてくれるのですが、これもすごくいい効果を生んでいると思っています。
英語じゃなくてもなんでもそうですが、子どものほうがうまくできることだってありますよね。
その時にそれを通して、子どもたちも他人にそれをどう伝えるのかを一生懸命考えます。
そして親子間においては、ママよりも自分のほうができるということがあるのはきっと誇らしいことなのだと思います。
さいごに
これからも、毎日のように交わされるキッチンテーブルでの会話の中に、
子どもたちの小さな成長と、私自身の学びが詰まっていくはずです。
きっとこれからも、うまくいかないことはたくさんあると思います。
でも、問いがある限り、私たちは前に進める。
だから今日もまた、夕飯のあとにテーブルを囲んで、
「ねえ、今日どうだった?」と声をかけてみようと思います。
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